冷戦の詳細 — 封じ込めからデタント、崩壊まで
米ソ対立の各局面(封じ込め・ベルリン封鎖・キューバ危機・デタント・冷戦終結)を年表でたどる。
- 封じ込め政策とマーシャル・プランの目的を説明できる
- ベルリン封鎖からキューバ危機にいたる危機の時代を、核戦力の観点から説明できる
- デタントと冷戦終結(ゴルバチョフの改革・東欧革命・ソ連崩壊)の経緯を説明できる
📑 目次
冷戦の始まり — 封じ込め政策
第二次世界大戦後、アメリカの外交官ジョージ・ケナンは1946年の「長文電報」で、ソ連の膨張に対する封じ込め(コンテインメント)政策を提唱しました。トルーマン大統領は1947年、共産化の脅威にある国を支援すると声明(トルーマン・ドクトリン)。同じ年に国務長官マーシャルが示したヨーロッパ復興計画がマーシャル・プランで、約130億ドルを西側諸国に供与して経済的に立て直し、共産主義の土壌を奪いました。これに対しソ連はコミンフォルム(1947)や経済互助委員会(コメコン、1949)で対抗し、世界は「自由主義陣営 vs 社会主義陣営」の二極構造へ進みます。1949年には北大西洋条約機構(NATO)が結成され、1955年にワルシャワ条約機構(WTO)が対抗して成立しました。
| 局面 | 年代 | 代表的事件 |
|---|---|---|
| 封じ込めの開始 | 1947–49 | トルーマン・ドクトリン、マーシャル・プラン、ベルリン封鎖 |
| 危機と分断の固定化 | 1950–62 | 朝鮮戦争、キューバ危機、ベルリンの壁建設 |
| デタント(緊張緩和) | 1963–79 | ホットライン、SALTⅠ、ヘルシンキ最終文書 |
| 新冷戦と終結 | 1979–91 | アフガニスタン侵攻、レーガンのSDI、東欧革命、ソ連解体 |
ベルリン封鎖 — 最初の大規模危機(1948–49)
ドイツは戦後、アメリカ・イギリス・フランスの西側占領地区と、ソ連占領地区に分断されました。首都ベルリンも同様に分割され、西ベルリンはソ連占領区域の中の「島」になりました。1948年6月、西側3カ国が西側占領地区での通貨改革(ドイツマルク導入)を進めると、スターリンは西ベルリンへのすべての陸上・水上輸送路を封鎖。約200万人の市民が食料と燃料を絶たれます。西側は約11カ月間にわたりベルリン大空輸作戦を実施し、1日あたり1万トンを超える日もある規模の物資を空から運びました。封鎖は1949年5月に解除されましたが、この危機が1949年の東西ドイツ正式分立(西独=連邦共和国、東独=民主共和国)を決定づけます。
キューバ危機 — 核戦争寸前の13日間(1962)
1962年10月、アメリカの偵察機がキューバにソ連製の中距離弾道ミサイル(MRBM)基地が建設中であることを発見しました。キューバでは1959年にカストロの革命政権が成立し、ソ連と接近していたのです。ケネディ大統領は海上封鎖(隔離)を実施し、フルシチョフ第一書記と13日間にわたり綱引きを行いました。世界は核戦争の直前までいきます。最終的には、①ソ連がミサイルを撤去すること、②アメリカがキューバへ侵攻しないことを約束、③さらにアメリカがトルコから Jupiter ミサイルを秘密裏に撤去する——という妥協が成立しました。この危機を教訓に、米ソ間にはホットライン(1963)が設置され、部分的核実験禁止条約(PTBT、1963)が調印されました。
デタント — 緊張緩和の時代(1960年代後半〜70年代)
- 1963: 部分的核実験禁止条約(PTBT)。大気圏・宇宙・水中での実験を禁止
- 1968: 核拡散防止条約(NPT)。1967年1月1日より前に核兵器などを製造・爆発させた国を核兵器国と定義し、非核兵器締約国に取得・製造などを禁じる。核軍縮交渉の義務と原子力平和利用も定める(1970年発効)
- 1972: ニクソン訪ソ。第一次戦略兵器制限交渉(SALTⅠ)、ABM制限条約
- 1975: 全欧安全保障協力会議(CSCE)最終文書=ヘルシンキ宣言
デタントとは仏語で「緊張緩和」の意味です。キューバ危機の恐怖を経験した両超大国は、核軍備競争のコストと偶発戦争のリスクを抑えるため対話路線に転換します。ただしデタントは「冷戦の解消」ではなく「競争の管理」でした。1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻でデタントは崩壊し、カーター政権はモスクワ五輪ボイコット(1980)、後続のレーガン政権は戦略防衛構想(SDI、通称スター・ウォーズ計画)を掲げて再び軍拡競争に入ります。「新冷戦」と呼ばれる時期です。
冷戦の終結 — ゴルバチョフからソ連崩壊まで
| 年 | できごと | 意義 |
|---|---|---|
| 1985 | ゴルバチョフ書記長就任 | ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推進 |
| 1987 | 中距離核戦力全廃条約(INF) | 初めて一種類の核兵器を全廃 |
| 1989.11 | ベルリンの壁崩壊 | 東欧革命の象徴。ハンガリー経由の亡命者急増が契機 |
| 1990 | 東西ドイツ統一 | 10月3日、西独に編入される形で統一 |
| 1991 | 湾岸戦争・ソ連8月クーデター | 多国籍軍の勝利、保守派の反乱失敗でソ連解体が加速 |
| 1991.12 | ソ連崩壊 | 独立国家共同体(CIS)成立。冷戦体制が名実ともに終焉 |
ゴルバチョフの改革は、硬直したソ連経済と政治を立て直す試みでしたが、逆に民族問題や政治的自由化の流れを加速させ、ソ連邦自体の解体につながりました。1989年にはポーランドで連帯労組が主導する円卓会議、ハンガリーの国境開放、東ドイツ・チェコスロバキア・ルーマニアなど東欧各国で共産党政権が相次いで崩壊(東欧革命)。1991年12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、翌26日にソ連の連邦機関が連邦の消滅を確認しました。こうして約45年続いた冷戦は終わり、アメリカ単独超大国の時代(ポスト冷戦)が始まります。
キューバ危機が、その後の米ソ関係にどのような変化をもたらしたか述べよ。
解答・解説
核戦争の瀬戸際を経験したことで、両国は直接対話による**危機管理**の必要性を認識した。具体的にはホットライン設置(1963)、部分的核実験禁止条約(1963)、NPT(1968)など、軍縮・信頼醸成措置が生まれ、のちのデタント路線への転換のきっかけになった。
練習問題
封じ込め政策の具体的な手段として、1947年に提唱され、1948年に実施が始まったヨーロッパ経済支援計画の名称を答えよ。
ヒント
提案した国務長官の名前がついています。約130億ドル。
解答・解説
マーシャル・プラン(欧州復興計画)。西欧の経済復興を支え、共産主義勢力の伸張を防いだ。
ベルリン封鎖に対して西側が取った対策の名称と、封鎖が始まった年を答えよ。
ヒント
約200万人の市民に物資を届ける方法として選ばれた。
解答・解説
ベルリン大空輸作戦。1948年6月に封鎖開始、1949年5月解除。
デタント時代の成果として1963年に調印された条約、および1972年に調印された武器制限協定を答えよ。
ヒント
前者は核実験、後者は戦略兵器の数値制限。
解答・解説
1963年=部分的核実験禁止条約(PTBT)、1972年=第一次戦略兵器制限交渉(SALTⅠ)とABM制限条約。
冷戦終結の決定的な出来事として、1989年と1991年にそれぞれ起きたことを挙げよ。
ヒント
前者はドイツの首都、後者は連邦そのものの運命。
解答・解説
1989年=ベルリンの壁崩壊(東欧革命)、1991年=ソ連の崩壊(CIS成立)。
確認クイズ
問1. 封じ込め政策を提唱した人物は誰か。
問2. キューバ危機が起きたのは何年か。
問3. デタントが崩壊した直接のきっかけとなった事件は何か。